諦めてしまう君へ~ステップ3~

死を意識すると人は変わる


人は「死」について本能的に考えない様にしている、という話を聞いた。

なんでも、「死」について考えるとおかしくなってしまうそうだ。

しかし、それでも「死」について考える事を奨める。

決して、死んだらどうなるのか?ということではない。

このまま年老いて、その時が来た時にどう思うのか?

本当に後悔はしないのか?

明日、その時が来ても本当に後悔はしないのか?

人は必ず死ぬ。これは変えようがない事実だ。

なのに多数の人が永遠の命を与えられているかの様に時間を無駄にしている。

それは「死」を考える事から逃げているからだ。

スポーツが楽しく、感動するのは
その時まで、全力でプレーするからだ。

人生も同じだ。必ず試合終了の時が来る。
その時まで全力で生きるから楽しいし、感動するのだ。

全力で仕事をやり、全力で学び、全力で遊ぶ。

人生という試合で手を抜く者に、楽しさ、感動はやってこない。


死に直面すると人は変わる、とよくいう。

これは「死」というものを味わったから人生観が変わったのだ。
1分1秒の大切さが本当の意味で分かったのだ。

だからって死に直面する必要はない。
人間は想像出来る生き物だ。

疑似体験出来るのだ。

今のままその時を迎えた場合、なんと言うだろうか?

本当はなんと言いたいだろうか?

私は「楽しかった」と言いたい。
だから楽しいと思うことはなんでもやる事に決めている。



ビジョンを創れた君へ~ステップ2~

その姿を鮮明にイメージすることだ。

目を閉じれば浮かんでくるくらいイメージを繰り返す。
そして実現したかの様に振る舞う。

人はイメージした方向に向かう。


幅20cm長さ1mの板の上を歩ることは出来る。
しかし10階建てのビルにかかっていたらどうだろうか?

きっと歩けない。

これは落ちるという負のイメージを抱いてしまうからだ。

人生も同じで負のイメージを抱いてしまうと怖くて一歩が踏み出せない。

勇気を振り絞って進んでみても結果は板から落ちる、となるだろう。

なぜ、人はイメージの方向に向かうのか?


それは無意識の力によって、である。

普段、私はこんな人だ、なんて意識していない。
しかし、無意識下では鮮明なイメージを持っており、それに従って行動している。

日常で意識を使っていることは5%未満だ。
残りの95%は無意識で行動している。

よって良い、悪いに関わらずイメージ通りの結果になるように無意識が働きかけるのだ。


イメージングの力を一番活用しているのはスポーツ選手ではないだろうか?

最高のプレーをイメージして試合に臨む。

決して負のイメージを思い描いたりはしない。

なぜなら人はイメージの方向に向かうことを知っているからだ。


理想を手に入れたい君へ~ステップ1~


理想の自分になる為に必ず必要なことがある。

それは理想(ビジョン)を想い描く事だ。

理想を想い描くことからしかスタートはできない。

では、どの様にビジョンを創るか?

未来の自己紹介文を創る事だ。

3年後でも5年後でも、とにかく自由に想い描く。
なかなかイメージ出来ない人は軸を決めると良い。

例えば、家庭、仕事、財産、趣味など。
どんな家庭を築いているか?
どんな仕事をしているのか?
財産は?

こんな感じで未来の自分を創ってしまう。

この時気を付けなければいけないことは制約を設けない、ということだ。

自分には無理だ、とかお金がないから、とかそんなことは関係ない。
とにかくなりたい自分を想い描く事が大切だ。


今の自分は過去の思考によって出来ている。
過去の延長線上に理想はない。

思考を根っこから変える必要があるのだ。

可能性を信じるのだ。

今日から新たな人生が始まる。
さっきまでのあなたはもういない。

紙とペンを取り明確なビジョンを描こう。

「やりたいこと」が見つからない君へ~可能性を信じることから~

やりたいこと、って何?

就活生から「やりたいことが分らない」という言葉をよく聞く。

実際は多くの社会人も同じ気持ちを持って、なんとなく今の仕事をしていることだろう。

なぜそんな世の中になってしまったのか?

そこには二つの問題がある。

一つは洗脳
一つは勘違い

である。

洗脳の問題


真の問題は常識と言う名の洗脳だ。

大人たちは常識から外れた考えを排除しようとする。
「常識的に考えてお前には無理だ」
「大学を卒業したら働け」
「大学はでとけ」などなど

大人たちは常識が大好きだ。
子供達を常識ある大人にしようとする。
子供達の可能性を潰していることに気付いていない。

子供の頃は奇想天外な夢を持っているものだが、いつしか現実的な目標に変わる。
これは、成長するにつれ、常識という枠に収まってきている証拠だ。

常識に囚われると「やりたいこと」の全てに制約条件がついてしまう。
「私では無理だ」「お金がないから無理だ」
「家族がいるから無理だ」など。

「やりたいこと」を考える時、常識は必要ない。
あなたの可能性は無限だ。

勘違い


これは人生と仕事を別物と考えてしまう勘違いだ。
目標と手段との関係にも似ている。

どういうことか?

毎年海外旅行に行きたい、という願望の為に仕事をしてお金を貯める、ということもある。

この場合は仕事は手段でしかない。

世の中を良くしたい、と仕事をしている人もいる。

この場合は仕事がやりたいことだ。

要するに「やりたいこと」=「仕事」という式は成り立たないのだ。

目標もなく、やりたい仕事でもないから嫌になるのだ。
仕事の先にやりたいことがあれば嫌な仕事も耐えられる。
なぜなら仕事自体はただの手段でしかないからだ。
仕事を目的にしか考えられない人は「やりたいこと」を無理に見つけようとする。


常識に囚われず、どんな人生を送りたいのか?を考えると自然と「やりたいこと」はでてくるはずだ。
今まで出会った人で「やりたいこと」がない人に出会ったことがない。

必ずあるはずだ。

それを仕事とするのかどうかは「やりたいこと」の性質による。

今、何の制約条件も考えずに「やりたいこと」を列挙してみてほしい。

それらは必ず実現できる。

出来ないと思う人や列挙出来ない人は、
まだ常識に囚われている。



東京からシカゴまで30分で行ける様になるか?

あなたの答えはどうか?
無理!と答えた人もいるだろう。

しかし、よく考えてほしい。

昔は何日もかけて移動していた距離だ。
もっと前は移動すらできなかった。

その当時同じ様な質問をしたらどう答えるだろうか?
きっと多くの人が無理!と答えただろう。

そこで、常識に囚われず可能だ!と思った人が世界を変えているのだ。

常識とはただの洗脳だ。
そんな洗脳に振り回されることはない。

あなたは純粋に「やりたいこと」を考えれば良いのだ。

「出来る」「出来ない」は関係ない。

もう一度言う。

必ず実現できる。


議論が苦手な君へ~大切な事は前提~

同じ目的、同じ目標に向かっているはずなのに話が噛み合わない・・そんな経験をしたことはないだろうか?

きっと多くの人が経験しているはずだ。

例えば、売上を増やす、という目標に対してA案(品揃え)とB案(絞込み)があったとしよう。

B案の方が圧倒的に優れているのに、多数決でA案になってしまう。

なぜ、そんなことが起きるのか?

前提が違う


多くのすれ違いは前提の違いからくる。
先の例で言えば、明らかにB案の方がその企業には正しかった。しかし、絞込み=売上減という前提条件が多数の人にあった。

これでは議論の余地なくA案になってしまう。

このような事例はどの企業でも見られる光景だ。

前提が変われば、答えは変わるのだ。
よって、前提が違うと議論の意味すらない。

しかし、前提を揃えないで議論している事が世の中には多すぎる・・


では、なぜ、前提が違うのか?


一つは、知識・経験
もう一つは、目標の共有化

前者は簡単に想像出来るだろう。
知識・経験のレベルが違うと話が噛み合わない。周りにB案の意味は分らない。

この場合はB案の意味をしっかりと伝えなければならない。
つまり、なぜB案なのか、の前提を揃えなければいけないのだ。

後者は目的、目標の共有不足だ。

どういうことか?

おもしろい例がある。
ある夫婦に、ようやく歩ける様になった子供がいた。夫婦の共通の思いは、子供が立派に歩ける様になることだ。

これのどこに問題があるのか?

父親は様々な困難を自分で回避しながら歩ける様になってほしかった。

母親は危なくないように困難になるような物を全て片付けた。

分かるだろうか、子供が立派に歩ける様になる、という一見共有出来ている目標であっても手段は180度変わってしまう。

ここでも前提を揃える、という事が大事になる。
立派に歩ける、の「立派」とは何か?
「立派」の為にはどのような手段が良いのか?

それら全ての前提を揃えないと、話が噛み合わない。

議論が上手くできない人は、一度、前提が揃っているか確認してみると良い。


チームに属している君へ~本当のチームワーク~

前回の続き


ここで一つの疑問が・・


世間で言われているチームワークに必要な要素として『人間関係』『コミュニケーション』が上位に入る。
これらはいらないのか?

誤解を恐れずに言うと・・『Yes』だ。

それは何故か?

信用、信頼というものは結果であって過程ではない。
『成果』を出すから生まれるのであって、人間関係が良いから成果を出せるのではない。

また、コミュニケーションも同じである。10の能力を持った人達には会話は必要ない。
会話がなくても居心地が良い、真の親友や恋人を持った経験はないだろうか?

本質的には同じことだ。

スポーツ選手のインタビューでも同様な事を耳にする。
「あいつならここにパスを出してくれると信じてた」「あいつならあそこに走り込んでくると信じてた」

まさにプロフェッショナル同士が組むと『言葉』はいらないという象徴だ。


私は人間関係やコミュニケーションを否定しているわけではない。

しかし、今の日本のチームワークをみていると『助け合い』という定義に偏っているように思える。

人間関係を意識し過ぎて意見が言えない・・
許してもらえるからと会議に遅れてくる・・

そんな会社を数多く見てきた。
そして、決まってこのような会社ほどチームワークを口にする。

一度、自分のチームはどうなのかを考えてほしい。

チームに属している君へ~最高のチームとは~

チームワークを語るとき、よく1+1を3にする、とか力を合わせて掛け算にする、など耳にする。

しかし、実際は1+1は2だし、力を合わせても掛け算にはならない・・

この綺麗事が日本のチームワークをダメにする。

では、チームワークとは何か?


それは個々人の役割を果たすことだ。

個人の1と個人の1を足すと3になる、ということではなく個人の1を2や3にする。
個々人が3にできれば3+3になる。

『個人の弱点を補い合う』というのは役割の範囲外を指しているのだ。

営業の人であれば営業の範囲内に弱点を持ってはいけない。しかし、役割外の弱点は仲間に助けてもらう、ということだ。
営業マンは営業の、事務員は事務、開発者は開発の役割を果たし、その結果をもって他者を援護する。

例えば手術を行うチームがある。
執刀医は執刀の、麻酔医は麻酔の、機械出しは機械出しの、役割がある。

それぞれが自分の役割に弱点を持っていて他の人が助ける、なんてことはないだろう。
いや、仮にあったとして、そのチームは本当に最高のチームだろうか?

私が患者ならそんなチームには手術を行ってほしくはない。

やはり自分の役割を完璧に果たす人達が集まったチームにお願いしたいものだ。

チームワークにはもうひとつ大事な事がある。


それは何か?
一人では達成出来ない事に挑む時だ。

勘違いしないでほしい。『力を合わせて』や『励まし合えば』という意味ではない。

いくつかの役割が必要な時、という意味だ。

野球で例えるならば、ピッチャーという役割があってキャッチャーという役割がある、ということだ・・

話を戻して、
目標が100の時、個人の絶対値が10ならどんなに努力しても、その目標は達成されない。

残り90を補う別の役割と結びついて100を達成させる。

要するに、10の人を10人集めなければならないのだ。

ここでも掛け算的な思考があるから勘違してしまう。

3の人が10人集まって、「力を合わせれば・・」なんてことを考えてしまうのだ。結果は30にしかならない。

3の力を10にまで引き上げる努力を個々人がやらなければならない。

その集合体が100になるのであって、
決して3の人が10人集まっても奇跡は起こらない。

ここで一つの疑問が・・


それは・・・

続く